チャーリー横山の健幸塾「風見どり」! 健康な身体と心そして幸せを手に入れるためのお手伝いができれば幸いです ...

健康な身体と心そして幸せをあなたに贈る健幸塾「風見どり」
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ホームページに対するご感想やご質問、または「準備中・・・」の項目の中で「早く掲載して欲しい!」などのリクエストがあれば、お気軽にお寄せください。

目次!
2010年05月07日 ビルマの画家が描いた「不思議な岩
2010年06月10日 ブルーグラス音楽「Bluegrass
2010年11月03日 笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品「替え歌
2010年11月18日 NHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」
2010年11月29日 フーテンのヒデさん「腎臓ガン闘病記録」
2010年12月30日 フーテンのヒデさん「腎臓ガン闘病記録」インターフェロン編
2010年12月31日 ガン体験者が語る3回シリーズ「がんから元気になった6人講演会」
2011年01月08日 笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品「替え歌」新作
2011年01月15日 映画「宇宙戦艦ヤマト」より学んだ闘病へのヒント
2011年02月01日 フーテンのヒデさん「腎臓ガン闘病記録」発病原因編


読者の広場 2010年05月07日(木) ビルマの画家が描いた「不思議な岩
読者の広場
腎臓がんには「ショウガ湿布」が良いと教えてくれたハワイの友人マギー(Margie Norstrom)! 先日「主人にガンが見つかり、抗がん剤治療を始めたが、その副作用で痴呆症が進んでしまった!」との相談メールがありました。
彼女にはエドガー・ケーシー療法ひまし油湿布などを勧め、その方法を教えたりしていました。
そんなやり取りの中、マギーがこんな絵を私のところに送ってくれました。
BurmseRock
水面に写る岩!
さて、皆さんは何に見えるでしょうか?、角度を変えて見てみましょう!
BurmseRock
母と子が祈る姿」が現われました!
皆さんはこの絵に何を感じるでしょうか?

読者の広場 2010年06月10日(木) ブルーグラス音楽「Bluegrass
読者の広場
Bluegrass(ブルーグラス)音楽についてのお問い合わせをいただいておりますので、Bluegrass(ブルーグラス)音楽を簡単にご紹介しましょう!
NashvilleBluegrassBand
ブルーグラス音楽は、1946年頃にアメリカはケンタッキー州でビル・モンロー(Bill Monroe)の手により生まれました。 それまでビル・モンローは兄のチャーリー・モンロー達とオルド・タイムのバンドをやっていましたが、 この年にバンジョー(Banjo)奏者のアール・スクラッグス(Earl Scruggs)レスター・フラット(Lester Flatt)などを新メンバーに迎え、 バンジョー、フィドル(バイオリン)、マドリン、ドブロ、ギター、ベースの楽器構成を基本としたプロの音楽としてBluegrassが誕生しました。

Bluegrassという名は、発祥の地ケンタッキー州の愛称に因んでつけられました。 ケンタッキー州は馬の産地として有名で、牧場ではKentucky Bluegrassという春先に青色に光る牧草がいたるところで見られます。
Kentucky
さて、このブルーグラスがどんな音楽かというと、日本の演歌ににているかもしれません。 ブルーグラスの軽快なリズムから、日本では「カントリー&ウェスターン」とよく間違われるのですが、 実はそのリズムより歌詞の内容に特徴があります。 それはちょうど日本の演歌、または黒人のブルースといったところでしょうか!
ブルー(Blue)には、「青い」という意味の他に「寂しい」という意味があります。 ブルーグラスという名は、このBlue寂しい」にも掛けて名づけられたのかもしれません。

アイルランドやスコットランドからアメリカ南部に移住してきた彼らの苦難を、 その「ワビサビ」を陽気で軽快なリズムに乗せて払拭しています。 移民たちの開拓時代の南部での暮らしは相当厳しいものだったようです。 痩せた土地に貧困な暮らし、炭坑での事故や病気などで早くに両親や愛する妻や夫を亡くす人達も多かったようです。

私が20代の頃、好んで演っていたこの曲「Will The Roses Bloom」も、軽快なリズムからは想像しがたい詞の内容で、 初期のブルーグラスの特徴を感じることができます。

興味のある方は、ぜひ視聴してみてください。 Tony Rice(ギター)Ricky Skaggs(マンドリン)の二人による演奏ですが、それなりに音の深みを感じます (題名またはCDマークをクリックすると再生できます!)。


Will the roses bloom where she lies sleepin'
Will the flowers shed their petals there
Will the dew drops fall upon the roses
Where my darling sleeps beneath the sand

妻の眠るこの場所に、薔薇が花を咲かせることでしょう
やがて、その薔薇の花びらは舞い散り
花びらについた朝露は妻の眠るこの土の下に染み込んでいきます

Her lips were like a bunch of roses
Her eyes shined like the stars last night
And her hair was dark and it was curly
I'll love her still the day I die

妻の唇は、まるで薔薇の花束のようでした
瞳は、昨夜の星のように輝いていました
髪は、こげ茶でカールしていました
そんな妻を私は命尽きるまで愛し続けるでしょう

Will the roses bloom where she lies sleepin'
Will the flowers shed their petals there
Will the dew drops fall upon the roses
Where my darling sleeps beneath the sand

妻の眠るこの場所に、薔薇が花を咲かせることでしょう
やがて、その薔薇の花びらは舞い散り
花びらについた朝露は妻の眠るこの土の下に染み込んでいきます

How I miss my darling as she's sleeping
Underneath the beautiful sky
I miss her more now since she has left me
I know we've said our last good bye

あ〜何と恋しいことでしょうか
あなたは、この美しい空の下に眠っているのですね
あなたが去った今も、この恋しさは募るばかりです
あなたと最期のお別れを交わしたというのに・・・

Will the roses bloom where she lies sleepin'
Will the flowers shed their petals there
Will the dew drops fall upon the roses
Where my darling sleeps beneath the sand

妻の眠るこの場所に、薔薇が花を咲かせることでしょう
やがて、その薔薇の花びらは舞い散り
花びらについた朝露は妻の眠るこの土の下に染み込んでいきます

翻訳/チャーリー横山

DewDrops

この曲が、現実のものとなるとは、私は想像もしていませんでした。
とても、残念でなりません、、、

さて、私とこのBluegrassとの出会いですが、私は中学生の時にラジオから流れるこの音楽が気に入り、数少ないラジオ放送を見つけては聞いていました。 その一つは米軍向けのFEN(極東)放送で、すべて英語ですがカントリーBluegrassを時々聞くことができました。 またFM大阪で週に一度「渡辺俊夫さん」とい人がBluegrass番組をやっていました。

そして、高校に入学したとき、クラブのOBに大阪のナカイ楽器に勤めていた人(中川さん)がおり、 渡米した話やナッシュビルから買ってきたギターやバンジョーを見せてもらいました。 そして、その中川さんの友人( Bluegrass 45 の渡辺三郎さん)が宝塚ブルーグラスフェスティバルを開催しているというので連れていってもらい、 ただ聞くだけではなく、自らが演奏者として参加するブルーグラスフェスティバルの魅力にとりつかれてしまいました。

この「B.O.M サービスの渡辺三郎さん」、実はFM大阪でブルーグラス番組をやっていた「渡辺俊夫さん」の弟さんでした。 しかも、渡辺三郎さんの自宅(B.O.M サービス)が、私の実家から徒歩で15分ほどの所にありビックリしてしまいました。 そして、渡辺三郎さん(サブさん)のところへ良く遊びに行くようになりました。

サブさん宅では、日本では手に入らないレコードやテープをダビングさせてもらったり、バンジョーやフィドルのフレーズを教えてもらったりしました。 また、サブさん宅には関西をはじめ、関東など全国からブルーグラス関連の来客がいつもあり、 時には海外からのお客さんもいらっしゃいました。

そして、子供の頃から「農場で働きたい!」という夢を持っていた私が高校を卒業するとき、 サブさんから「北海道酪農学園大学の平塚健太郎さん」をご紹介いただき、北の大地を目指すことになりました。 そして、この北の大地で「チャーリー横山とザ・ホットストリングバンド」が誕生しました。
大学卒業後は、「農場で働きながらブルーグラスをやる!」という目標を掲げ、アメリカのカリフォルニア州の農場へと旅立ちました。 しかし、そこでの労働は厳しく、遂には作業中の事故で左手を潰してしまいました。 地元の州立病院で整形手術を受け、リハビリにも半年以上通いましたが、指が元に戻ることはありませんでした。 しかし努力の結果、残りの指でギターやバンジョーなどを弾けるようになり、カリフォルニアの農場を後にしてナッシュビルへと向かいました。
バスで3日半かかりましたが、憧れのナッシュビルへと到着し、現地で当時「アコースティック楽器のリペアマン」の修行を行っていた「平塚健太郎さん」に再会、合流し、 ナッシュビルの仲間とジャムセッションをしたり、ライブハウスStation Innでセッションバンドで演奏したりと、楽しい滞在でした。
ナッシュビルでは友人のローランド・ホワイト(Roland White)に会い、 ローランド宅で奥さんの手料理をご馳走になり、ローランドローランドの子供と一緒に遊んだり、ジャムったりしました。
そこで、ローランドの弟さんである憧れの亡きクラレンスホワイト(Clarence White)の話を聞くことができ、 私が弾くクラレンス風のギターに合わせてローランドKentucky Colonels風にマンドリンを弾いてくれました。
また、ローランドマックピーク氏(ビル・モンローと一緒にバンドをやっていたメンバー)を紹介してもらい、 彼から、1927年製の Pre War(戦前モデル) Gibosn RB-3 バンジョーを手に入れることができましたが、 このバンジョー、残念ながら今はなく 1995 年の「阪神・淡路大震災」で家と共に燃えてしまいました、、、

そんなブルーグラス音楽、その「ワビサビ」の世界は今も私の心を支えてくれています。

読者の広場 2010年11月03日(水) 笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品「替え歌
読者の広場
郭林新気功(京都教室)の「フーテンのヒデ」さんから、ご自身で作詞された「笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品の替え歌」が届きましたのでご紹介します。

まずは、ウルトラセブンの替え歌で「生きがいセブン」です。
ヒデさんは「生きがい療法実践会」にも参加されており、「生きがい療法実践会」での「笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング」用としてご自身が作詞されたそうです。

― 生きがいセブン ―

内なる力 免疫力
ナチュラル キラー
インターフェロン
ワクチン療法
セブン セブン
がん細胞をやっつけろ
お笑いパワーで
アタック!

伊丹先生(※)の処方せん
漢方パワー
かくりん気功
イメージ療法
セブンセブン
めざせ
遥かなモンブラン
生きがいパワーで
アタック!

近代医学も進んでる
ガンマーナイフ
分子標的
粒子線ビーム
セブンセブン
お金かかるの
玉にきず
お国の援助
ちょうだいちょうだいちょうだい!!

注)この替え歌は決して免疫力だけを賛美するものではなく、現代医学と代替療法は、両方の「いいとこ取り」をするべきというのが、作詞者(ヒデさん)のご意見です。


次の「魚屋のおっさん」の替え歌も、「生きがい療法実践会」での「笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング」用としてヒデさんが作詞されたそうです。

― 魚屋のおっさん ―

魚屋のおっさんが
日焼けした
まっぐろ!

魚屋のおっさんは
やさしいよ
まあ いいか→いか!
魚屋のおっさんが
泣いちゃった
さめざめ!

魚屋のおっさんが
やけどした
あじー!

魚屋のおっさんは
九州弁
そうですたい→たい!

魚屋のおっさんは
英語好き
ハウマッチ→ハマチ

魚屋のおっさんは
スポーツマン
ホッケー →ホッケ

磯野家のお仕事は
魚屋さん
さざえ かつお わかめ ますお たら !!


最後は「365歩のマーチ」の替え歌「かくりん気功のマーチ」で、これもヒデさんが作詞されたそうです。

― かくりん気功のマーチ ―

健康は 歩いてこないだから 気功をするんだよ
一日二回 三日で六回一年やったら700回
人生は ワンツーパンチ
汗かき べそかき シシフしよ(※)

あなたがつけた足跡にゃ きれいな花が 咲くでしょう
腕を振って 足を上げて シシフ シシフ
休みながら 歩こう!
それ シシフ シシフ シシフ シシフ

※ シシフ:シシフは吸吸呼の中国語発音で郭林気功の「歩く気功」のかけ声(風呼吸法)です!

「郭林気功」については「気功」ページの「郭林気功」でもご紹介しております。

読者の広場 2010年11月18日(木) NHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」
読者の広場
郭林新気功(京都教室)の黒田さんより「NHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」」の資料をいただきましたのでご紹介します。

NHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」 は、元NHK番組ディレクタ「川竹文夫」さんによって1992年に制作された番組です。
川竹文夫さんは、1990年の腎臓がん発病をきっかけに、ガンの自然退縮の研究を開始されました。 そして、1992年にNHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」を制作し、 1997年には、ボランティア団体「ガンの患者学研究所」を設立し、現在は、セミナー・講演会で全国を精力的に飛び回っていらっしゃいます。
川竹文夫さんの著書には、『幸せはガンがくれた』創元社 、『「ガン・治る法則」12カ条』三五館などがあります。

自然退縮
1992年当時の川竹文夫さん

では、NHKスペシャル「人間はなぜ治るのか」の内容を簡単にご紹介してみましょう。

自然退縮

NHK教育テレビで放映された教育スペシャル「人間はなぜ治るのか」の3回シリーズは、ガンに対する当時の常識を覆す素晴らしい番組です。


〜 番組内容 〜

■第1回 ガンからの生還

60歳男性 肝臓ガン 余命1年と言われたが自然退縮して8年、今も元気。
78歳女性 転移した乳がん 自然退縮して、やがて40年。
76歳男性 すい臓がん 余命3週間といわれたが自然退縮
56歳女性 胃がん 余命3ヶ月といわれたが自然退縮
59歳男性 開腹すると既に末期がんであり、手の付けられない状態。医師は何も対処できなかったが、死後 病理解剖するとガンは完全に消滅していた(他の原因で死亡)。

※本人の「心」「気持ち」の持ち方が、ガンを自然退縮させた事例を紹介しています。

自然退縮
すい臓がんを克服した小山王さん

■第2回 心がガンを治した

【三重県の代替療法を行う病院】
26歳男性 肝臓ガン あと1週間の命といわれたが、1年後この病院でガンが完全に消滅。

【東京のK病院の代替療法】
31歳男性 脂肪肉腫 絶望に打ちひしがれていたが、この病院の温熱療法などで希望が生まれ前向きに生きられるようになる。
月一回の学習会
体験を話し合い、生きる目的に気づき皆元気を取り戻す。
44歳女性 子宮絨毛ガン アメリカの最も先進的なガン治療をしている病院で余命6ヶ月と宣告され帰国。 東京のK病院でガンを消失させ、その後無事双子を出産。

【東京の「あなたと健康(東条百合子)」料理教室】
病気と闘っている人たちの料理教室。
病を通して心を豊かにさせ、明るい生き方に変えている。

※「様々な代替療法」や「心」の持ち方が、人生最悪の危機 (ガン) をこの上ない人生の贈りもの (より豊かな生き方) に変えた事例を紹介しています。

自然退縮
あなたと健康社の東条百合子さん

■第3回 イメージの治癒力(アメリカ篇)

【メリンガー・クリニック病院(カンサス州トペカ)】
精神病院だが、ガンの治療でも名高い病院
バイオフィードバック法 (体温、心拍、血圧や脳波を、自分の心の持ち方でコントロールさせる方法)を用いている。
心理学者 パトリシア・ノリス
9歳男児 脳内にピンポン玉大の腫瘍。1年後「イメージ療法」で消滅させる。

自然退縮
脳腫瘍を克服したギャレット・ポーターさん

【サイモントン・ガンセンター(カリフォルニア州ロスアンゼルス】
サイモントン療法(「イメージ療法」の一種)を行う。
50代男性 白血病 余命2年と宣告されていたが、ガンから生還。
 
自然退縮
白血病を克服したリード・ヘンソンさん

※「イメージ」が、ガンの治癒に有効であるという事例を紹介しています。

いずれも絶望的なガンの状態にありながら西洋医学だけに頼ることなくではなく、自らの心の持ち方や生活習慣を改善し、自己免疫力を高める方法で、ガンに打ち勝っています。


〜 ガンの患者学研究所 〜

さて、この番組を制作された川竹文夫さんが設立された「ガンの患者学研究所」とはどのような団体でしょうか? 「ガンの患者学研究所」 のホームページで『がんの自然退縮が教えるもの』 という特集記事を見つけましたのでご紹介します。


〜 特集記事『がんの自然退縮が教えるもの』 〜

■私と自然退縮
1990年、腎臓ガンを発病した私は、退院後のある日、自然退縮の存在を知る。 それは、ある本に紹介された、九州大学名誉教授・池見酉次郎氏の次の話によってであった。 「私どもは十数年前、ガンの自然退縮の研究を始めました。末期ガンになって医者から完全に匙を投げられた患者さんが、時として自然に治ってしまうんですね」
そのことを妻に知らせると、彼女は恵みのように微笑んだ。「自然に治るくらいなら、ガンも大したことないね」。この時私の心の中で、治るスイッチが〈オン〉になった。 1993年、私は、自然退縮をした人たちの証言を海外にまで出掛けて取材。NHK教育テレビスペシャル『人間はなぜ治るのか』三本シリーズとして放送。教育テレビ始まって以来の大反響となった。
1995年、大幅な追加取材をした上で、「幸せはガンがくれた・心が治した12人の記録」(創元社)を出版。こうした経験から、対処法さえ間違わなければ、ガンが他の生活習慣病に比べても、〈治りやすい〉病気であることを確信するに至った。
以下は、そんな私が自然退縮から学んだことのエッセンスである。

■自然退縮を知るメリット
1.ガンの誤ったイメージを跳ねとばしてくれる。
精神神経免疫学は、言う。「恐怖・不安・絶望などのマイナスの感情は、免疫を下げて、ガンを治りにくくする。」、「喜び・希望・安心・勇気などのプラスの感情は、免疫を上げて、ガンを治りやすくする。」
だが、世の中には今も、〈ガン・イコール・死〉という、誤ったイメージが蔓延。患者たちは、ガンそのものと戦う以前にその絶望的なイメージに打ち負かされてしまう。心は体の設計図。建物が設計図どおりにできあがっていくように、心が勝てば、体はきっと、完全治癒を実現する。 とすれば、ガン患者は何よりもまず、自然退縮の存在から、大きな希望を得ることが大切。治らない設計図を破り捨て、〈治る設計図〉に書き替えるのだ。
2.現代ガン医療の限界と、あるべきガン医療の姿が分かる
最終的には、〈自然に治った〉ガンが、一度は医師から見放されるほど悪くなったのは何故か。ここにこそ現代ガン医療の誤りがある。氷山になぞらえた『ガンの原因と結果の図』を見てほしい。
三大療法ができることは、手術で切り取り、放射線で焼き、抗ガン剤で毒殺すること。つまり、ガンという結果を取り除くだけ。 自然退縮の人の多くも、再発、転移、あるいは医師から見放されるまでは、三大療法にすがり、悪化の一途をたどっていった。ガンの原因は手付かずのままなのだから、不思議はなかったのだ。
では、医師から見放された彼らが何故、生還しえたのか。
一つ。海面下に隠れた、ガンの原因を、徹底的に取り除くこと。
一つ。玄米菜食、気功、健康食品、漢方、鍼、瞑想、ヨガ、枇杷葉温灸やショウガ湿布などの自然療法で、免疫向上をはかったこと。
どれもみな、平凡なことばかり。決して決して、何か特別なことをしたのではない。誰にでも、明日からでも始められる地味なことを、日々、営々黙々と積み上げた結果にすぎない。 多くの人にとって、自然退縮が稀な存在に見えるとすれば、それは、〈当たり前のことを必死でやる人〉が少ないということにすぎない。が〈一人の身の上に起こった良きことは、誰の上にも起こるチャンスがある〉のだ。

ガンの原因

■自然退縮から目をそらす人々
虚心坦懐に目を向けるなら、自然退縮は、患者・医者双方にとって、実に多くのことを教えてくれる。だが、さまざまな理由から、あえて目をそらす人たちがいるのは、きわめて残念なことである。
1.自然治癒力を知らない医者
信じがたいことだが、西洋医学の教科書には、『自然治癒力』という言葉が、無い。そのため医師たちは、治療という〈外部からの力〉を加えない限り、病気は治らないと思い込んでいる。ガンなら、手術で切り取る、放射線で焼く、抗ガン剤で毒殺するしかない。原因さえ取りのぞけば治るなんて、信じられないという訳だ。
『創傷治癒』という言葉は習っているから、骨折や怪我の傷が自然に治ることは理解できる。にもかかわらず、話がガンに及んだ途端、「自然治癒力で治るなんてありえない」となる。その迷いと誤りの根は、実に深い。
2.『ウィルヒョウの呪い』に、かかっている医者
ウィルヒョウとは、ガンの定義で知られる十九世紀の細胞病理学者。「ガン細胞は、宿主(患者)が亡くなるまで、無限の増殖をする」
何と絶望的な定義であることか。が、これは、免疫機能を無視している点で大きな誤り。ガン細胞は、人類全員に毎日何個かは生まれている。だからもしウィルヒョウの言うとおりであれば、全員がガンで死ぬことになってしまう。私はこれを、『ウィルヒョウの呪い』と名付けた。ガンセンターを初めとする三大療法一辺倒の医者たち。そして、結局ガンは治らないから、「患者よガンと闘うな」と説く近藤誠氏。彼らは、この呪いにかかっているため、きわめて悲観的である。
不幸なことに、大半の患者は、こうした医者の考えに感染する。かくて、『治せないと思っている医者』と『治らないと思っている患者』のコンビが出来上がる。精神神経免疫学に照らすまでもなく、これでは、ますます治りにくくなる。私は、このコンビを『絶望のコンビ』と名付けた。ここから脱出するためにも自然退縮に学んでほしい。

生活習慣改善の健康貢献度

3.信じたくない患者たち
「末期ガンが治るなんて気休めではないか」。ある講演会でこんな質問が出た。なんとか治りたくて、私の話を聞きにきたはず。なのに信じたくないとは、せっかくの治るチャンスをみすみす捨てるようなもの。「どうせ私には、無縁の存在」とも言う人も多い。誰にもチャンスがあるなどと認めてしまうと、自分も努力をしなければいけなくなるからだろう。両者とも、これまであまりにも否定的なイメージに痛め付けられすぎたせいである。
余命一ヶ月の肺ガンから生還したKさん。 まったくの健康体で二年目を迎えたにもかかわらず、「自分が自然退縮するなんて、信じられない」と言い続け、ついに、再発をしてしまった。 心は体の設計図だ。治ることを信じられない心は、ついに、体の上に、その疑いを実現してしまったのである。

■自然退縮の新しい定義
自然退縮など、私には無縁。そう言って、諦めてしまう人がいる。
それは、〈文字通り、一切何もしないにもかかわらず治る〉という、自然退縮の〈古い定義〉にとらわれているからだ。だがすでに見てきたように、彼らは、まったく何もしなかったわけでは決してない。西洋医学的な治療をしなかっただけだ。
その代わり、すでに見てきたように、氷山の海面下を必死で改めてきた。だが医師たちには、その努力がまったく見えていない。だから、奇跡的、あるいは特別な例外だと誤認し、挙句には、もともとガンではなかったと考えたりするのである。
そこで私は、以下のような、自然退縮の〈新しい定義〉を提出したい。
自然退縮とは、三大療法のように、ガンを直接攻撃することなく、〈自然治癒力(免疫)を持ち上げることによって、ガンを消滅に導いていくこと〉であると。 とすれば、今この瞬間にも、自然退縮は全国各地で起こっている。 代替医療の現場で、自助療法に熱心に取り組むたくさんの患者さんの家庭で。もちろん、それは決して奇跡でも何でもない。
新しい定義から学ぶこと。

1. 自然退縮とは、何もしないで放置しておいたのに、訳も分からず治ることではなく、自然治癒力を応援した結果、治ることである。
2.代替医療や民間療法は、自然退縮を意図的に起こす方法である。
3.誰にでも、自然退縮が起きるチャンスがある。
4.西洋医学に見放されても、ガンは十分、自分で治せる。

■自然退縮を実現できる人、できない人
自然退縮を実現できる人、できない人。その違いは何か。私は、多くの実例の取材から、次のような態度で、ガンに向かうことができるかどうかだと考えている。
1.害になることをやめる
人はとかく、〈足し算健康法〉に走る。良い治療法、良い薬、良い健康食品、ガン治しに効果のある栄養素を含んだ食物や料理。次々と付け足していく。がしかし、彼らが真っ先にやったことは、〈引き算健康法〉である。 煙草、酒、肉、卵、牛乳、加工食品、添加物、白米、白砂糖。夜更かし、不規則な生活、働きすぎ。いさかい、怒り、恨み・・・。山ほどある、〈悪いもの〉〈悪いこと〉をまずやめた。その上に、慎重に選んだ〈良いこと〉を、積み上げている。
ガン以前の生活習慣や生き方は、今にもつぶれそうなあばら家。あせって〈良いこと〉を建て増ししても、基礎もろとも崩れてしまう。だからまず、すべてをぶっこわして更地にする。その上で、新しい建物を建てるのだ。つまり、人生の棚卸し。総決算。生まれ変わり。
生活排水や産業廃棄物で腐敗しきった川も、それら〈悪いもの〉をストップするだけで、水質は回復する。自浄能力があるからだ。体には自然治癒力がある。だからまず、〈悪いもの〉〈悪いこと〉をやめる。それだけでも、回復に向かうものだ。
2.言い訳をやめた
治ったあの人は自分より・・・若い。経済力がある。家族の協力がある。症状が軽い。治りやすいガンだった。発見が早かった。幸運だった。情報が手に入りやすかった。コネがあった・・・何とか、自分の不利な条件を探そうとする。こういう言い訳は、行動力を奪う麻薬。
一晩に二度も意識不明になるほどの末期の膵臓ガンから生還した小山王さんの言葉。
「玄米がまずいの、何がどうのって、色々言う人がいるけれど、死ぬのとどっちがいいと思ってるんだと、ね。命と交換ですよ」
3.取り引きをやめた
「治るものならやってみたいが、ダメなのならやりたくない」と言う人がいる。典型的な取り引きである。酷なようだが、これでは、うまくいかないだろう。やれることは、何でもやる。やる以上は、これで絶対に治ってみせる。必ず治る。と思ってやるべし。
ショウガ湿布がいいと聞いた翌日から、三日間必死でやり続け、モルヒネを使っても取れなかった骨転移の痛みと縁を切った女性もいる。彼女は、取り引きとは無縁だった。
4.希望と自信を持つ
「どうすれば、希望が持てるだろうか」「治る自信が持てない」と言う人がいる。気持ちは分かるが、希望も自信も、〈行動〉しない限り手に入らない。いや、どちらも実はすでに自分自身のなかに眠っている。それを呼び覚ますのが行動である。
治った人の本を読む。治った人の声を聞く。治った人に会いにいく。希望につながる講演やセミナーに出掛けてみる。ともかく、すぐにやることだ。
5.医者の言葉を跳ねとばす
「治療法がない」 この医者は、『三大療法しか知らない私には、もう打つ手が無い』と言っているだけ。代替療法、自助療法など、治療法はいくらでもある。試すチャンスが来たのだと喜ぼう。
「もう治らない」 この医者には、治せないというだけのこと。あなたのガンが治らない訳では、決してない。
「あと〇ヶ月」 余命宣告をする医者の心理は、以下のとおり。
そのとおりに、患者が亡くなれば、自らの予言の正しさが証明されて権威が高まる。 予想に反して延命すれば、自分の手柄。患者に感謝される。 どちらに転んでも医者には損はない。こんな無責任な言葉など、即、蹴飛ばしてしまうことだ。
私は明言する。医者たちは、せいぜい三大療法という、極めて狭い領域のプロであるにすぎない。だが、私たち患者は、生きるプロ。何があっても、病に負けず、生き抜いていくプロなのだ。

自然退縮の人たちは、そのことを証明した。今度は、あなたが証明する番である。



〜 Weller Than Well(ウェラー・ザン・ウェル) 〜

英語が苦手だという川竹文夫さんですが、その英語で好きな言葉が一つだけあるといいます。 それは「 Weller Than Well(ウェラー・ザン・ウェル) 」という言葉です。

Weller Than Well とは、誰言うとなく伝えられてきた言葉で、直訳すれば「健康なときより、いっそう健康」という意味になります。 そして、その言葉を元に「日本ウェラー・ザン・ウェル学会」が設立されました。 こ学会は、この言葉 Weller Than Well 「自助努力によってガンを治した人は、ガンになる以前にも増して、心身共に、はるかに健康で幸せな人生を送ることができる」と、より積極的に解釈しています。

「日本ウェラー・ザン・ウェル学会」 創立メンバーの一人で、世界的免疫学者である安保徹氏は、「病がもたらす発熱や痛みなどの不快な症状はすべて、身体が自らを回復に向かわせるための〈治癒反応〉である」と指摘すしています。 とすれば、病自体がすでに、病む人の心と身体、人生と命を、より良きものへと導く〈癒しのプロセス〉だと考えることができます。 つまり、病は〈善〉! そしてWeller Than Well は、病んでこそ実現できる、そのもっとも美しい姿であり、人生の進化を示す姿なのだ!」と説いています。



読者の広場 2010年11月29日(月) フーテンのヒデさん「腎臓ガン闘病記録」
読者の広場
「フーテンのヒデ」さんから、「闘病記録」が届きましたのでご紹介します。

ヒデさんは、私の妻と同じ「腎臓ガン」を患われていますが、 西洋医学と代替療法を効果的に利用することで、非常に治療が困難とされているこの「腎臓ガン」に上手く対処されています。 放射線に感受性が無く、有効な抗がん剤がほとんど無いとされていた「腎臓ガン」、近年の新薬「分子標的薬」の開発により明るい陽射しが見えてきました。 効き目や副作用についてまだまだ未知の「分子標的薬」ですが、この新薬を利用した治療法を中心にヒデさんが闘病記をまとめてご提供くださいました。
この情報は、これから「分子標的薬治療」を行おうとされている患者さんには、大変価値のある参考資料になることと思います。 ガン攻略の鍵は「如何に早く有効で正しい情報を手に入れるか!」が大きなポイントとなっているようです・・・
この貴重な資料をご提供くださった「ヒデさん」に深く感謝いたします。


〜 腎臓ガン闘病記録 〜

皆さんこんにちは!!「フーテンのヒデ」と申します。兵庫県在住です。
2005年2月に左の腎臓に悪性腫瘍(要するにがん)が見つかりました。43才でした。 3回の手術腎臓一つと副腎二つを取り、その後薬で治療を続けています。 小さい肺の転移が残ってますが、年が明けると発見後6年を迎えます。
お世話になっている皆様に、心から感謝しています。

病気が病気なだけに、これまで私なりに必死にいろんな治療などに取り組んできました。 特に、2009年からは最新の薬の分子標的薬を飲んでいます。これもいろんな副作用があり、まさに実験台のようなものです。 このような私の治療の経験、記録は、最近同じ病気になられた方々には多少ご参考になると思い、チャーリーさんにお願いして、このホームページに載せていただくことになりました。

一緒にあせらず、陽気に元気に生き生きと、治療と養生をしましょう!

■ 治療中の川柳などです

「三日後に 傷口見れば、 こりゃ サイボーグ」
・最近は傷あとをホチキスの親玉みたいなのでとめるようで、なかなか迫力があります。

「チューブ 取れ  トイレでじょろじょろ、 ああ  うれしい!!」
・手術後は、尿はチューブからでした。チューブを抜いてもすぐには出ませんでしたが、やっと出た時の句です。

「病院で、 冬 イナバウアー、  夏 ハンカチ王子」
「病室の  テレビの中の  甲子園、 君もがんばれ  僕もがんばる」
・2006年は計四ヶ月ほど病院にいました。
・テレビのスポーツ中継には励まされました。荒川選手の金メダルもハンカチ王子と田中マー君の決勝再試合も病院で見ました。

「いいお部屋ですと  個室を出れば、 イビキ交響楽」
・抜糸も済み、個室から相部屋に移った時の句です。

「温泉で  お仲間さがす、 手術あと」
・三回の手術で私の体には電車の路線図のような傷あとが残りました。本当はこの傷に感謝すべきなんですが…


■ 分子標的薬ネクサバール
Nexavar
三回の手術は終わりましたが、今度は両肺に数ミリの転移が現れ、インターフェロンαの注射を約二年間続けました。 最後はめまいや吐き気等の副作用が強くなり、病院を変わったこともあって、2009年1月から認可ホヤホヤだったネクサバールという分子標的薬を飲み始めました。 規定の半分の一日二錠ですが、さっそく副作用が現れました。

1. 足の裏の痛み
まず手足症候群、特に足の裏の痛みです。 皮がめくれ、腫れて杖が必要になりました。会社へ電車通勤していますが、痛みで休んだこともあります。 あとで、サリチル酸ワセリンが良いとわかり、ステロイド軟膏、水虫薬と一緒に塗りましたが、やらないよりはまし程度でした。 痛みがひどいと鎮痛剤ロキソニンも飲みます(胃薬も一緒に)。
また、入浴には注意が必要です。入浴すると足の皮を取りやすくなり、最初はおもしろがってむいてましたが、皮がむけた跡はなかなか新しい皮が張ってこないため、歩くと激痛でまいりました。今はやむを得ず、必ず足を出して入浴しますが、温泉ではちょっと苦労します。

2. 胸の痛み
今までは心臓関係の問題はありませんでしたが、ネクサバールを飲んだ11ヶ月に四回位、胸を締め付けられるような痛みを経験しました。 狭心症に似ており、痛みが来るとすぐにニトロベンという薬をなめましたが、効き目はもうひとつだったので、たぶん副作用だろうという話でした。 毎回15〜20分でおさまりましたが、心臓あたりだけに不安なものです。

3. その他の副作用
まず、お腹がすくと低血糖状態で元気がなくなるという、まるでオバQのような症状ですが、なってみるとなかなか深刻です。 これもネクサバールを始めてからです。空腹になった時に、急にガクッとして冷や汗が大量に出て来ます。 あわてて甘い物をとると、10分位でおさまります。例は少ないようですが、私の血糖値は正常なので、膵臓に影響したのではないでしょうか? また、脱毛もかなりのもので、かなり髪は薄くなりました。
よかった点は、恐れていた間質性肺炎が起きなかった事と、白血球が下がらなかった事です。

4. 効果
最初の三ヶ月の効果は、CT検査では最大7ミリ位の肺転移は変化なしでした。私には、これは副作用、特に足のつらさを考えると不満足でした。 10月頃にかなり強い胸の痛みが起き、分量が一日1錠に減りましたが、1ヶ月後のCTでは「拡大傾向」という結果で、さすがに力不足でした。
この後は、さらに新しいスーテントに変更になりました。
認可を待ち焦がれたネクサバールですが、一年稼いでくれたのでやはり感謝すべきでしょうね。


■ 分子標的薬スーテント

Sutent

ネクサバールを中止し、同じタイプの分子標的薬でさらに新しいスーテントを2009年12月からスタートしました。これも規定の半分の一日2錠からです。 なおこのタイプの分子標的薬は、腫瘍の血管を阻害して、言わば兵糧攻めにする薬ですが、スーテント腫瘍の縮小力もかなりあるという話で、期待していました。

1. 飲み方
薬はカプセルで、一ヶ月飲んで二週間休みます。 ネクサバールは休薬期間が特に決まってなかったので、スーテントの方がもちろん楽ですね。

2.価格
最近の新薬は値段の高いのが大きな問題です。スーテントは、一日2錠分で自己負担が約5000円位します。一ヶ月15万円ですね! もし規定の4錠だと30万円!!(副作用の為、4錠飲める人は少ないようです) ネクサバールは少し安かったですが、一日2錠で月10万円位したと思います。どちらも高額医療費の対象ですね。

3.副作用
説明書にはいやというほど副作用が並んでいますが、私の場合、今のところは足の裏と口内炎が主なものです。

1) 足の裏の痛み
やはり足は痛みますが、ネクサバールよりは楽な感じです。しかし一週間以上飲むと皮がむけてきます。 今は、ネクサバールの時の塗り薬に加え、ロキソニンの湿布を貼ると、初期の痛みならおさえられます。 またチャーリーさんから、奥様が使われていた皮膚の角化症防止クリームを教えて頂きました。 なお、やはり日に3錠は飲んだ方がいいとすすめられて、挑戦しましたが、3日飲んだだけで足が腫れ上がり、すぐ2錠に戻しました。 薬というのは分量によって全く別ものになると痛感。 なおネクサバールでは手も腫れましたが、スーテントは大丈夫です。

2) 口内炎
たいしたことはないように思われますが、なかなかつらいものがあります。 4週目になるとかなり口の中が痛んできて、カレーやわさびは絶対無理。 普通の餃子やピザでさえダメな時もあり、自分でも食べられるかどうかわからない時があります。対策はステロイド軟膏より、うがい薬でのうがいの方がましなようです。

3) 白血球と血小板
メジャーな副作用ですが、私の場合は今のところ大きな問題ではないようです。 最初は二週間で白血球2700、血小板も下がり休薬になりましたが、最近は大体は白血球3000台を維持しています(基準は4000以上ですが・・・)。 これには、月に4〜5日の自主休薬のおかげもあると思ってます。

4) 胸の痛み
スーテントは心臓関係の影響もあり、最初に心エコー検査もありました。腫瘍の血管を阻害するのだから良い血管にも作用するのでしょう。 9ヶ月間は大丈夫でしたが、2010年9月に二回起きてしまいました。 特に二回目は、久しぶりに軽いハイキングをした翌日に起きて、循環器内科で「ハイキングなど激しい運動は禁止!」と言われてしまいました。 自業自得かもしれませんが、ちょうどフィットネスにも入ろうかとしていたので、かなり落ち込みました。 主治医からは「次に起きたらスーテント中止ですね」と言われてますが、その後は痛みは出ていません。

5) その他
空腹時の低血糖症状は、軽いですがやはりたまにあります。できるだけお腹が空かないように間食をしています。 あと、ネクサバールの時から奇妙ですが、時々腹筋などがつるようになり、車の運転中など困りましたが、漢方の芍薬甘草湯(シャクヤクカンゾウトウ)を飲み始めて起こらなくなり、飲み続けています。 またスーテントでは脱毛はなく、髪が戻って「元気そうですね」と言われると嬉しいものです。

4.効果
そして肝心の効果ですが、私は2009年7月から近畿大学病院で月に1、2回、ペプチドワクチンの注射の治験にも参加してますので、厳密にはスーテントとこの注射の併用効果です。 2009年末で最大7、8ミリだった肺転移が、2010年9月のCTでは4ミリ位になっています。 ミリ単位の世界なので誤差はあるでしょうが、拡大を防ぎ縮小傾向にある事は確かで、転移の消失などの贅沢を言わなければ、うまく行っていると言えます。

5.今後の展望
来年2月で病気発見から6周年になります。とにかく5年生きる事をめざして必死にやってきたので、会社生活も続けながらここまで来れた事は感無量です。 最初の頃は「効果15%程度」のインターフェロンαインターロイキン2位しか薬がありませんでしたが、 2010年にまた新しい分子標的薬のアフィニトールトリセルが認可され、別の副作用はあるようですが、気分的にもゆとりを持てます。 さらに二つの分子標的薬が開発中で、本当に頼もしい状況になってきました。
この薬物治療を体がだめにならない程度に続けながら、 通勤電車でのイメージトレーニング、笑いによる免疫力アップ歩く気功もできるだけ実行して、 完治をめざしていきます。

全ての関係者の皆様に心から感謝申し上げます。

2010年11月29日 フーテンのヒデ

■ インターフェロン

Sutent

フーテンのヒデです。
今回は、腎臓がん闘病記録の「インターフェロン編」を書かせていただきました。

時間はさかのぼりますが、2005年に私の腎臓に腫瘍が見つかった当時、薬としては免疫療法のインターフェロンαインターロイキン2くらいしかありませんでした。これらは人体に存在している物質を薬品にしたものです。 腎臓がんは放射線も抗がん剤もあまり効かず、本当に治療法が少なかったのです。

1. インターフェロン開始
2005年の春に左の腎臓を取りましたが、その秋にさっそく左副腎が怪しいと言われ、12月に再入院しました。 すぐ手術とは決まらず、とりあえず「効果は15%くらいですよ」というインターフェロンαの注射を始めました。 これは入院して始めると決まっているそうで、自己注射の練習と、最初の発熱等の副作用への対応の為のようです。

2. 副作用
使ったのは、商品名スミフェロン600万単位です。確かに、始めの2、3日は40度近い高熱が出て、ロキソニンを飲むだけでは不足で、座薬の解熱剤もナースさんに入れてもらいました。 また一度、白血球が下がって注射が中止になりました。(当時は採血データの見方もわかりませんでした) 後日、職場復帰して会社の診療所で打つようになりましたが、夕方注射をすると、体全体にドーンといった感じやしびれがあり、とても残業はできませんでした。 足元が頼りなく、地下鉄のホームに恐怖を感じた事もあります。(個人差があり、注射後も平気な人もいるようです。) 注射と同時にロキソニン1錠を飲み、慣れるとそれほど熱は出ませんでした。 また、怖い副作用にうつ症状がありますが、私の場合は出なかったようです。 なおインターフェロンαの値段は、健保がきいて一本5000円位、月12回で6万円でした。

3.副腎への効果
地元の病院で注射をしながらセカンドオピニオンを受けたところ、「とにかくがんばって再手術を!」という意見もあり、同じ地元の病院で左副腎を取る手術に決まりました。インターフェロンは結局約一ヶ月で中止になりましたが、CT画像ではやや縮小の兆しがあり、私の体はよくインターフェロンに反応したようです。

4. 手術後に注射再開
結局2006年は、2月に左副腎、8月に右副腎を取る手術をし、会社も一年休職させていただきました。 手術後、9月から地元の病院でインターフェロンα600万単位の注射を転移予防の為に再開しました。 「転移予防効果は証明されていません」という話でしたが、とにかく転移を防ぎたい一心でした。週三回の注射を一年続け、「肺に星みたいな影は一つあるものの、もう大丈夫でしょう」という判断で、2007年10月で中止したのです。ところが、翌年1月のCTで肺の影が大きくなってきたので、あわててインターフェロンを再開することになったのです。 (今から思えば、一年でやめずに半分の300万単位の注射を続ける方が、増大を防げたのではとも思いますが、当時はそんな製品がある事も知りませんでした。) とにかく、皮肉にも肺の影は転移であるとはっきりし、インターフェロンには体内のがん細胞を全滅させる程の力はなかった訳です。 2008年1月のCTでは、転移は右に二個、左に一個で、サイズは大きいのが7ミリ、小さいのが2ミリ位で(何分小さいので誤差はあります)、今日までこの転移と付き合っている訳です。 インターフェロンをきちんと週三回できた時期は、7ミリが3ミリ位に縮小するなど、「効果は15%」の割りに、私の肺にはよく効いていました。

5. 副作用強くなる!
しかし、2008年の夏から副作用がどんどんひどくなり、吐き気やめまいまで出るようになりました。 吐き気には薬もありますが、めまいにはお手上げで、何回か朝起きられずに会社に遅れる状態でした。 ひどい時は、目分量で注射薬を半分捨て、自己流で減薬しました。半分の場合は体がはるかに楽でしたが、効果は現状維持が精一杯でした。 こうしてインターフェロンαの注射は2008年11月で中止しましたが、私に二年の時間をくれた薬でした。

6. 丸山ワクチンとタガメットを併用
正確には、インターフェロン使用中はこの二つを併用していました。 丸山ワクチンは昔から知っており、東京の日本医科大学の治験薬扱いの注射です。 近所の内科医院で週三回打ってもらいました。最初だけ大学にもらいに行きますが、あとは郵送してくれます。薬代は月に約1万円です。 私の場合の最大の効果は白血球が上がった事で、インターフェロンと併用中に白血球減少の心配は全くありませんでした。 ただし腫瘍の縮小効果は残念ながらなかったようです。ペプチドワクチン注射を新たに始めた時点で、丸山ワクチンは中止しました。 もう一つのタガメットは、成分がシメチジンの胃薬ですが、転移予防効果の研究があると倉敷の伊丹先生にすすめられて、一日4回4錠を飲みはじめました。 これは大阪成人病センターでもインターフェロンと併用で効果があったとの事でした。 1年以上続けましたが、何と!「女性化乳房」という副作用の兆しが出たので中止しました。 また胃薬なだけに、胃を荒らすロキソニンの対策にもなったようです。 このインターフェロンなどの併用期を経て、分子標的薬の治療に移った訳です。

「インターフェロン編」をお読みいただき、ありがとうございました。

2010年12月30日 フーテンのヒデ

■ 発病の原因
こんにちは!フーテンのヒデです。
これまで、薬の治療状況を中心に書いてきましたが、今回は「病気の原因」などを書いてみます。

1. 発病
それは2005年2月、43才の早朝でした。珍しく尿意を感じ、トイレに立ったところ、突然ドバッという感じで真っ赤な血尿が便器一杯に出たのです。さすがにただごとではないと、近くの総合病院に飛んで行き、腎臓内科で超音波検査を受けました。 暗い所でかなり長い時間、若い女性の担当の方に検査され、段々不安になってきました。 その結果は左腎臓に8センチ位の腫瘍があり、悪性と思われるというものでした。その後、院内の泌尿泌尿器科に回されて左腎臓を取る手術を受けた訳です。 手術の結果では、正式には腎細胞がんで、T2MONOつまり、2期で遠隔転移なし、リンパ転移なしでした。

2. 病気の前兆
がんのご多分に漏れず、私の場合も病院に行くほどの前兆はありませんでした。多くの場合、症状が出た時には手おくれになるのです。 しかし、しいて挙げれば、血尿の一年ほど前から、いわゆる「尿もれ」がありました。トイレが終わったと思っても、またすーっと出てズボンが汚れてしまうのです。前立腺の検査は異常なく、中年だから仕方ないと思っていました。 また、これも一年前から太ももやお尻まわりに、ニキビ状態のできものが沢山できて、皮膚科で塗り薬と抗生物質をもらっていました。 やはり腫瘍から何かの物質が出ていたと考えられます。(ある食道がんの患者さんの本にも、胸にできものが沢山できたと書かれてました。) これらの前兆は、病院では関心を持たれませんでしたが、病気の早期発見にはとても大事な事だと思います。 しかし基本的には、人間ドック等で年一回は検査する必要があるでしょう。職場等の健康診断でも、最近はお腹のエコーもするケースも多いようです。ただし、CT検査は放射線被ばくが多い為に人間ドックでもあまりしないようですが、それでは肺がん等の発見が遅れるのではないでしょうか。

3. 病気の原因
(1) 受動喫煙
腎臓がんの原因は、国立がんセンターのホームページでは、「タバコと女性の肥満等」とあります。つまり男性の私の場合はまずタバコが疑わしいという事になりますね。 私はタバコの習慣がないので、他人の煙を吸い込む受動喫煙になりますね。フィルターを通して吸うより、他人の煙を吸い込む方がずっと有害だそうですが、それを知ったのは最近で、タバコの煙には全く無知で無警戒でした。 また家庭以外のいたる所にタバコの煙はありました。 昨年、日本で受動喫煙の害で死亡している人は6800人と推計されるという研究が発表されましたが、交通事故の死者より多い人数で本当にケシカラン、とんでもない問題です!! なお発病の原因に「抗生物質の副作用」と書いてある本もあり、前述の皮膚科での投薬にドキッとしましたが、病院では軽く否定されました。 ただし抗生物質は体内の良い菌まで殺す訳で、一年飲んだ事でがんに対する抵抗力も弱まったかもしれません。

(2) 悩み事のストレス
私はもともと悩みやすい性格でしたが、特に実家の相続税問題というのが、大きかったと言えます。 発病の数年前からこの問題のお金の不安がビークを迎えていました。手術の後、インターフェロン治療を続けながら、自分の生まれ育った築百年以上の家を必死の思いで処分し、この問題は解決しました。 振り返ってみると私の腎臓がんは、受動喫煙等の様々な有害物質の害を、悩みのストレスから免疫力が低下して押さえられずに発病したのだと思います。

4. 心のケア
がんは、現代医学でまだ完全に治る病気ではありません。特に手術で病巣を取っても、まだ転移や再発の不安があります。 がんにうつ病はつきものという調査もあるようです。 私の場合、病気の不安以外に、前述した税金の不安や家庭の問題など、実に沢山の悩みや不安がありました。 その対策として、まず手術した病院の心療内科を受診し、15分位話を聴いてもらい、ソラナックスという軽い精神安定剤を出してもらいました。 これは睡眠薬の替わりにもなり、ドクターによれば習慣性も副作用もまずないというもので、調子の悪い時は週1、2回寝る前に半錠飲みました。あるとき、朝がとても起きにくく、午前中一杯頭がぼーっとしたので、さらに弱いリーゼに変えてもらい、 今も時々使います。常習しなければ、こういう薬もいいかなと思っています。 あとは趣味等でストレスを発散する訳ですが、とにかく分子標的薬の副作用でハイキングやテニス等ができないため、文科系の趣味を捜していますが、当面はカラオケ位です。 ユーモアトレーニングの替え歌作りは、気分転換にもなります。「笑いの効用」を知った事は、病気をして良かった事のひとつです。

また私は中学生の頃、連合艦隊マニアだったのですが、療養中に昔の雑誌を引っ張り出して読んでいました。軍国的ではありますが、こんな趣味でも病気の事を忘れるという意味ではかなり役に立ちました。 がん治療の場合は、いかに心の安定を保つかも大切だと思っています。

「発病原因編」をお読みいただき、ありがとうございました。

2011年01月30日 フーテンのヒデ


読者の広場 2010年12月31日(金) ガン体験者が語る3回シリーズ「がんから元気になった6人講演会
読者の広場
ガン克服のための役立つ情報「ガンの辞典」サイトから送られてくるニュースレター「ガンに克つ体づくり心づくり」「がんから元気になった6人講演会」という連載記事がありましたのでご紹介しましょう。
Sutent

■ 「がんから元気になった6人講演会」 第一回 (2010年10月24日 名古屋)

1. 加藤美奈子さん(横行結腸ガン・肝臓転移)

1998年 大腸ガン(横行結腸)発症・肝臓転移
2001年 ガン消滅
現在 「NPO法人 いずみの会理事 ガン患者さんの相談役」としてガン患者さんをサポート

演題 『ガンを患って学んだこと』
Sutent

1998年12月、大腸ガンが見つかり手術をしました。

ガンになって思い起こせば、一年ほど前から、なんとなく疲れやすく、坂道も途中で一息いれないと登れなくなっていました。みぞおちが痛むこともあり、「おかしいな」という感じがしていました。ちょうどその年の3月に共働き生活に終止符を打ち、人生の中で一区切りついたこともあり、検診を受けることにしました。便に潜血が見られたので、大腸ファイバーをしてもらったところ、大きな病院での精密検査を勧められ、大腸の横行結腸というところにガンが確認されました。手術は早いほうがいいと考え、貧血がひどかったので輸血をするなど少し手間どりましたが、年内に手術を終えることができました。

年が明けて1月、もう退院できるかと思っていたところ、主治医から「肝臓ガンの治療を開始します」と告げられました。手術の際には知らされなかったのですが、当初から肝臓に転移があったのです。肝臓内の複数個所にガンがある多発性のため、手術はできず抗ガン剤治療となりました。胸から肝動注リザーバーを装置しての外来通院で、2週間に1回 4〜5時間をかけて投与されました。

ガンになったばかりの私は、ガンは切り取れば治るものだと思っていただけにショックでした。しかも、私の妹は肝臓ガン発症から3年で亡くなっています。大きな不安感に襲われました。

入院中、1年ほど前にやはり大腸ガンを患った知人がお見舞いに訪ねてくださいました。その方が、いずみの会(ガンの患者会)の会報と、お笑いと健康大学(伊丹仁朗医師主宰の生きがい療法を実践する)の資料を持参してくれました。それを読んで、「ああ、ガンは自分がつくった病気なんだなぁ。治すのをお医者さんに頼っているだけでは、ダメなんだなぁ」ということにつくづく気づいたんですね。ガンは自分の生活習慣に原因があったのだと。だから今までの生活パターンを変えなければいけない。それと、笑うことで免疫が上がるなんてことも初めて知りました。そういえば、私は笑うことが少なかったかな〜・・・と。

私なりに、ガンを誘発する生活習慣を考えてみますと、ストレス、食事、心の持ち方です。人間関係においては、私はあまり「イヤ」とは言えない性質でして。人になにか頼まれると断れない性分で、引き受けては疲れてしまう、の繰り返しでした。

ですから「もう、いい格好しないこと」「まぁいいか、と開き直ること」が必要だと思ったんです。そして、残りの人生で自分の楽しいこと、やりたいことをしていこうと考えるようにしました。まだ、海外に出かけたことがなかったので、家族みんなでハワイに行くことを提案し、8月に実現することができました。楽しいことをしてると、ガンの不安も消えるんですね。ガンになると、どうしても不安がつきまといます。どうしたら、その不安を打ち消すことができるのか・・・楽しいことや何かに夢中になっていると、不安を感じなくてすみます。

そうこうするうちに3年経った2001年5月、CT検査で肝臓の影が無くなっていると主治医に言われました。念のため食事指導でお世話になっている病院でもエコー検査をしてもらいましたが、やはり影は消えているという診断でした。

ガンをつくった体を変えるために、私は生きがい療法の五つの基本方針を心に刻みました。

@今日一日の生きる目標にうちこむこと
A自分が主治医のつもりで病気と闘っていくこと
Bもしもの場合の建設的準備をしておくこと
C死の不安恐怖と共存する訓練をすること
D人のためになることを実践すること

具体的に実践したことは、食事の改善(白米、白砂糖、肉、卵を断つ)、冷え取り健康法(とくに下肢を温める)、ビワ温灸、笑うこと、ヨガ、ウォーキング、家にこもらない・旅行、イライラすることがあったらその場から離れることなどです。そんな積み重ねで、私はガンになる前より健康になりました。ガンにならなかったら、生かされていることにこんなに感謝しなかったと思います。

日が昇るときには「今日も一日楽しみます」、寝る時には「今日も一日ありがとう」と心の中で唱えます。また、快便と体重維持を健康のバロメーターにし、少し体調が悪い時は夕食を摂らずに腸を休めることで回復するコツをつかんでいます。心も体もガンになる前よりほんとうに健やかになりました。

ガンをつくった生活習慣を変えるための方法は、人それぞれだと思います。自分に合ったもので、自分の体が喜び、気持のいいことなら、長く続けられます。そして、人が喜ぶこと、人の役立つことをしていく。

今日お集まりの皆さんも、ガンが治らなくても、共存でも、まず今より悪くならなければいい。長い時間かかってガンになったのだから、治すにも時間はかかります。どうぞ、不安を減らして、焦らずゆっくりとという気持ちで取り組んでいただければと思います。

ご清聴、ありがとうございました。


2. 織田英嗣さん(食道ガン)

2006年 食道ガン発症
現在4年経過、「玄米おむすびの会」代表 ・元「ガン患者学研究所」副代表・患者会会長

演題 『生き方を変えれば、ガンは克服できる!』
Sutent

5年前、偶然健康診断で食道にポリープが見つかり、ただちに再検査したほうがよいと指示を受けました。健康診断の翌日に電話がかかってきたぐらいなので、よほど目についたポリープだったのでしょう。結局、食道ガンと確定診断されましたが、当時の私は自分がガンになることなど夢にも思っていなかったので、「切れば治る」程度の認識でした。

手術に先だって、(ガンを小さくして手術しやすいように)術前化学療法を行うことになり、4週間抗ガン剤を入れました。抗ガン剤によって体力が低下したので、手術まで45日間を自宅で静養にあてました。入院中はさほど感じませんでしたが、自宅に戻るとふだんの生活ができないほど体がフラフラになっていることに気づきました。また抗ガン剤をやる前には自覚症状がなかったのに、抗ガン剤治療後は患部が痛く、抗ガン剤とはこういうものなのだと実感しました。

手術は15時間に及ぶ大手術で、家内はずっと病院内で待機していてくれました。あとで主治医に、脂肪がたっぷりついていたので大変だった、と聞かされました。いま私の体重は60kgほどですが、当時は80kgありました。手術後は人工呼吸器を付けて、身動きができない状態。手に握りしめたナースコールを離したら、もう終わりなんじゃないかと・・・。人間って、こんなふうにして死んでいくのか・・・、ということが頭をよぎる苦悶の時間でした。そのうち、開創部から感染して空気が入り、顔がパンパンに腫れた期間もありました。

「もう、こんな入院生活の苦しみは二度とイヤだッ!」「どうしてこんなことになってしまったのか?」 この辛く苦しい手術体験が、ガンに対してあまりにも無知だった私を勉強に駆り立てました。ガンに対する恐怖や不安は、ガンが得体の知れない正体不明なものであることも一つの要因です。ですから、自分がなぜガンになったのかを知ることで、恐怖や不安を減らすことができる。そう考えて、ガンの患者会である「いずみの会」「ガン患者学研究所」の門を叩き、学びました。

《ガンは今までの生活習慣によってつくられた!》思い当たる節はありました。私は、百貨店に勤めていたのですが、担当は食品なので、ありとあらゆる美味しいモノを食べていました。また、飲酒は毎晩欠かせませんでした。アルコールを飲んで就寝して目が覚めるとまた飲む。休日は朝から飲むこともありました。今から思えば、無茶苦茶ですよね。

食事を玄米菜食にして、アルコールも禁じました。子供が小さかったので、家族全員まったく同じ食事というわけにいかないので、自分の食事は自分で調理しました。体を冷やさないためには筋肉をつけて使うことだと自分なりに考え、もともと体育会系ですから運動を日課にしました。

仕事に復帰した後も、食事と運動、瞑想、ビワ温灸、そして睡眠をしっかりすることを心がけ、途中で挫折しないようにチェック表を作って習慣化しました。こういう養生を、ガンから逃れるために義務的にやるよりは、良くなってきたことを人に伝えていという思いが湧いてきて、それを励みとしてやることで、養生が楽しくなってきたものです。

ガンを発生させる環境には、内的なものと外的なものがあります。食事は物理的に体内環境に影響します。もうひとつ私たちの体に大きく影響する精神的ストレスを考えると、自分の内部から発生する内的ストレスと外部環境からもたらされる外的ストレスがあると思います。

私の心の奥底には「一番主義」があることを発見したのも、ガンになったからです。とにかく些細なことでも一番にならないと気が済まない。ですから、仕事もがむしゃらにやりました。おかげで早く出世はでき管理職になりました。しかし、百貨店の販売現場が性に合っていた私にとって、人を管理したり、部下を育成する業務はたいへんなストレスで、だんだん仕事が苦痛になってきました。常にイライラしているような状態が続いたのです。長い就労時間や睡眠不足も加わり、体は息つく閑もなかったでしょう。

自分なりにガンを研究したこと、また患者会で学んだことから生活習慣を改善し、養生をこなしていくことで、自分が快方に向かっている実感がありました。私には徐々にこの体験を人に伝えていきたいという欲求が湧いてきました。「生きる意味のある活動をしたい。自分が望む人生を送りたい」 その思いと職場の環境は一致しませんでした。考えに考えたあげく、会社を辞めました。

「癌」という字は、やまいだれに「品」が「山」ほどあるわけですね。ライフスタイルを変えるには、新しいことを取り入れるより、まず余分なものを捨てる、手放すことが先だと思うんです。それは失うこととは違うんですね。手放さないと、新たなものを手にすることができない。ガンになって、今までできなかったことができる機会を持てた。私はそう考えます。

ガン治しには、誰にも共通する正解はありません。誰かに指示されたことを頑張れば治るものでもありません。重要なのは、何が自分にとっていいのかを自分で見つけて、自分で決める。そして、今できることに集中する。その理由は、《プラスの動機》でやることが大切だからです。プラスの動機なら、毎日が苦しい修行でなく、行いが喜びになります。喜びを感じながら生きること。それが何よりの養生だと思います。

ありがとうございました。


■ 「がんから元気になった6人講演会」 第二回 (2010年11月23日 名古屋)

1. 金沢美子さん(腎臓ガン・膵臓転移)とお嬢さんの武井尚美さん

2006年 腎臓ガン発症・膵臓転移

演題 『たくさんの気づきにありがとう!』
Sutent Sutent
金沢美子さんとお嬢さんの武井尚美さん

私、大勢の方の前でお話しするのは慣れておりませんので、上手くできるかどうかわかりませんが、宜しくお願いします。

2005年の10月から咳と微熱が2ヶ月近く続き内科に通院していたのですが、なかなか治りませんでした。そこで呼吸器科の医院を受診し採血してもらったところ、総合病院で精密検査を受けるよう勧められました。地元の市立病院に行き調べてもらったのですが、とくに悪いところは見つからない。でも、相変わらず具合はよくないので、今度はエコー検査をしてもらったところ、右の腎臓になにか大きなものがあるのがわかり、泌尿器科に移りました。

検査の画像を見ると、ジャガイモかサツマイモのような形がくっきり映っていました。主治医の説明を私は待っていたのですが、なにもおっしゃろうとしません。間が悪くなって、私のほうから「先生、ひょっとしてこれはガンですか?」と訊くと、「そうです、ガンです」とおっしゃいました。「先生、ガンって、こんなに大きくなるんですか?」私は続けて訊ねました。結局、長引く咳は、この腎臓に発生したガンが肺に触れるほど大きくなっていたのが原因でした。

詳しく調べた結果、ガンは右の腎臓だけでなく、左の腎臓にも飛び火していました。市立病院では左右両方の腎臓を手術するのは難しいということで大学病院を紹介されましたが、手術まで3ヶ月待たなければなりません。3ヶ月もほっておけないので、大学病院から専門医が派遣され、市立病院で3月7日に手術しました。手術でガンを取り除くと咳はピタッと止まりました。術後の経過は良く、3週間で退院の運びとなりました。

5月になって、1ヶ月検診の結果を訊きに病院を訪ねた私を待っていたのは、膵臓にガンが転移しているという診断でした。たった1ヶ月ですよ。ほんと、声も出ないくらいショックでしたね。8mmほどの大きさのガンが5つ。家族にどう話したらいいやら・・・。腎臓ガンの手術が終わってやれやれといったところでしょ。すごく心配かけましたからね・・・。今でもその時、家族にどう話したのか覚えていないくらいです。

転移した膵臓ガンは手術も抗ガン剤も放射線もできません、と主治医は言います。まあ、原発が腎臓なのでインターフェロン治療を続けてみようという治療方針が提示されました。「要するに、もう打つ手がないんだな」私はそう感じ、不安の渦にのみ込まれそうでした。

そんな時、長女が一冊の本を持ってきてくれたのです。安保徹先生の『ガンは自分で治せる』という本です。「病院でなくともガンは治せる可能性がある」「自分でできるガン改善法がたくさんある」 気持ちが救われました。まさに人生が大きく変わる本との出会いでした。そしてできそうなことから実践を始めたのです。玄米や旬の野菜を食べること、ニンジンジュースも作って飲み、キノコや海藻を多く摂りました。そして家族みんなでいろいろな本を読み、情報交換をし、良さそうと思うことはなんでもやりました。その中から、自分の感覚を物差しにして体に合っているなと思うものは3年間継続して取り組むようにしたんです。

翌6月、がんセンターにセカンドオピニオンを伺いに行った際の検査で、膵臓のガンは8mm→24mm、5つ→7つと進んでいました。それでも病院ではどうすることもできない。結果的には、抗ガン剤も放射線治療もしなかったのが幸いしたと思うのですが、やはりその時は不安でした。

この時期に、地元のガン患者会である「いずみの会」を知り、早速入会しました。そこには、私と同じようにガンに罹り、克服している人たちがいたのです。会長の中山さんとガン体験者を交えた面談、ビワ温灸の講習会や尿療法の講演に出席しました。いろいろアドバイスもいただきながら、自分でガンを治すという意欲が湧いてきました。

とくに体温を上げることを改善のポイントに置いて、自分でできることに日々取り組みました。散歩、足湯、就寝時はいくつか湯たんぽを使ったり・・・。とにかく体温を上げればガンはそれ以上進行しないと信じ込んでやりました。自分の体と対話しながら、続けました。

病院では、このままのペースでガンが悪くなっていくと膵臓自体がもたないので、8月になったら全部摘出しましょうと言われました。私はその方針に納得がいきません。膵臓転移が見つかった5月には、手術はできませんと言っていた。なのに今になって全部取っちゃいましょうって、おかしいじゃないですか。手術のリスクに加え、膵臓が無くなってしまったら、ずっと糖尿病患者として生きていかなくちゃならない・・・。そんなのイヤだと思ったんです。

病院のほうは手術を念頭に入れているので、7月末に検査を組みました。すると、その検査の結果でガンの進行が止まっているのがわかりました。「これは今までやってきたことの成果がでてきたんだ」そう思い、主治医に手術はギリギリまで待ってほしいと頼みました。そして、これまでに増して家族一丸で自助療法に取り組んだのです。私の養生食にお婿さんまで付き合ってくれて・・・ほんと励みになりました。家族一緒によく笑いました。また末期ガンから生還した知人に紹介された外治法(体の外から手当てする)の療法家との出会いも、治癒を後押ししてくれました。

振り返ってみますと、病院では転移した膵臓ガンについては全摘手術しか治療法がなかった。それを拒否した私は、もう病院を頼れない状況になったわけです。その一見暗闇のような状況が、自分でなんとかしようという自立心を芽生えさせてくれたのです。自分の心に正直になる。素直になる。私はガンになるまで、自分の思ったことの60%くらいしか言えないタイプの人間でした。言いたいことも心の中に押し込めてしまう。そんな生き方をしてきたんですが、ガンになったお陰で心を開放できるようになり、楽に生きられるようになったのです。そして思ったことは行動に移し、どんなことにも感謝できるようになりました。自分の直感を信じる。あきらめない。自分の人生を生きる。そういうことを学びました。そして、奇跡は待つのでなく自分で起こすものだと・・・。

※ここからは、お嬢さんの武井尚美さん(講演会の主催者のお一人でもあります)が加わって講演が続きます。

武井さん:
母と7歳の息子の3人で来月12月のホノルルマラソンに参加します。(杉浦貴之さんが主催する「がんサバイバー ホノルルマラソンツアー」)お母さん、ホノルルマラソン参加を決めた動機は? 

金沢さん:
長年悪かった脚を直す良い機会だと思って参加を決めました。私は飲食店を営んでいたのですが、脚を悪くし、お医者さんに「このままでは歩けなくなるよ」と言われ、お店を閉めた矢先にガンが見つかったのです。私と孫(武井さんの7歳になる息子さん)は10kmを歩き、娘(武井さん)はフルマラソンに挑戦します。

武井さん:
膵臓転移を聞かされた時、まるで真っ暗なトンネルに入り込み、どこをどう進んめばいいか見当もつかない状態でした。1年くらいは不安でたまりませんでしたが、母と家族一緒に食事や療法を続けたら自分たちの体調も良くなったので、母はこれで治ると信じて2年、3年と月日が重なりました。体だけでなく考え方も変化し、心の大切さを強く感じています。ホノルルマラソンを一つの区切りとし、母のガン卒業記念にしたいと思っています。

とにかく3年間、毎日の日課(養生)を続けるには、母一人でなく家族の団結力があったからこそです。みんなで役割分担し、チーム力でここまでこれたと思います。

金沢さん:
ほんとに家族の愛に包まれて・・・感謝しています。
ありがとうございました。


2. 山下さんご一家(胃ガン・悪性リンパ腫・肺転移・前立腺転移)

2004年 胃ガン・悪性リンパ腫発症、肺転移・前立腺転移

演題 『家族と共に乗り越えたこと』
Sutent

※体験者である山下さんと奥さん、お嬢さんの三人で登壇。
主に奥さんの弘子さんが体験談を語られました。というのも、手術から肺転移が判明するまでの約 1ヶ月半の出来事を本人はほとんど記憶していないそうです。以前、仕事中に重機の下敷きになって45日間意識不明の際、お嬢さんはお父さんの爪の異変に気付きました。担当医は「生命を維持するためにエネルギーを集中させているので、爪や髪の毛などの生長は停止させるのだろう」と言いました。おそらく、ガンによる生命の危機を乗り越えるため、山下さんの体は緊急処置としてエネルギー配分を調整した。そのひとつが記憶機能の低下だと推測されます。

主人は昭和62年に胃ガンで胃を全部摘出しました。4〜5年かかって仕事に復帰し、経営者として会社を引っ張っていました。平成4年に重機の下敷きになる大事故で45日間意識不明。12000cc輸血しました。退院の際には一生車椅子生活だろうと言われましたが、自分で工夫したリハビリによって、いまはご覧のように自力で歩行しています。

平成15年秋に、体調がおもわしくなくなりました。細身なのにやけに下腹部がぷっくり膨らんでいる。思うように便が出ない。腸閉塞を調べたりしましたが、よくわからず入退院を繰り返していました。結局、平成16年6月になって小腸の良性腫瘍ということで開腹して一部を切除したのですが、手術中に悪性であることが判明したのです。

主治医は大学病院の血液内科への転院を勧めました。そこでは、3ヶ月徹底的に抗ガン剤治療をしましょうと診断されました。私たちは、こんな体力で抗ガン剤はきついだろうと考え抗ガン剤治療を断り、セカンドオピニオンを求め別の病院を受診したところ肺にも転移していることがわかりました。やはり今ならできると抗ガン剤治療を打診されましたが、入院も抗ガン剤治療もしないという本人の固い信念を通し、子供たちにもそのことを伝えました。

8月になると体重が激減し、肺に水が溜まりだしました。水はあっという間に肺いっぱいになり、病院からは何度も入院を勧められました。もうこの頃には抗ガン剤はできない状況です。8月10日には主治医から、この病状では一ヶ月もたない、と言われました。医師が病状説明する際は、「家族だけで聞くな、必ず俺も同席する」と本人が言い張っていたので、予め主治医に余命だけは告げないよう頼みました。実は8月29日に息子の結婚式が予定されていたのです。

病院からは、そんな状態の人を家でケアするのは難しいからとホスピスを勧められました。左肺いっぱいの水はやがて右肺にも及び、海で溺れるような苦しい死に方をする。酸素吸入も必要になってくるから自宅では無理だと。でも、頑として自宅に戻ることを変えませんでした。息子や娘には、もう病院では治療ができないから、ガンに良さそうなこと何でもいいから調べて教えてと指示しました。

8月10日・・・この日が転機となったのですが・・・息子の情報で豊田市のある治療院に行ってみることにしました。この時、主人は体重35Kg。娘と私が両脇を抱え、車に乗せて連れて行きました。治療院のM先生の言葉は納得いくもので、その後、私たち家族も事あるごとに心を助けて頂きました。一般的にいうところの民間療法ですが、とにかく主人は体温が低かったので、体温を上げ血行を良くすることに努めました。自宅から豊田まで車で1時間ですが、毎日通いました。そして間に合わないかもしれないと言われていた息子の結婚式には、車椅子で出席できたのです。

その療法を始めてから体に変化が見られたのは、5日経った8月15日からです。午後3時頃から発熱が始まります。 39.8度の高熱が約1ヶ月続きました。冬用の下着を着ていましたが汗でグショグショになるので、毎晩5〜6回着替えました。朝になると熱は下がり、玄米と生野菜という今でも続いている養生食を口にする毎日でした。大酒呑みでかつ大の甘党だった主人は、食べ物に関しては白砂糖は厳禁という食事指導のため甘い物は止めましたが、先生にも内緒で毎日おはぎ一個だけは食べていました。あれもこれもダメではストレスになってしまうと思い、それだけは許可しました。(笑)

いろいろな方にご指導頂けたのは本当に幸運でした。セカンドオピニオンで受診した病院の先生は、検査だけで無治療のお願いを快く聞きいれてもらえました。復活のきっかけとなったM先生、手当て日記の付け方をご指導頂いた心療内科の先生、気が動いているから可能性はあると励まして下さった鍼灸師の先生・・・本当に恵まれていました。感謝しております。

同じ年の10月30日、主人は「治った」と感じたと、私に告げました。「表と裏がコロっとひっくり返ったように治った気がする」と言うのです。確かに日に日によくなる、というよりは突然復活したように私も思ったものです。11月になって車を買うと言いだし、自分で運転し豊田まで通うようになりました。

この頃から主人は精神的にも落ち着いてきました。イライラすることもなくなり、気持が大らかになりました。今は、穏やかな気持ちで、面白おかしく生きていくのがいちばんじゃないかなと思っています。あと少し娘が補足させて頂きます。ありがとうございました。

※お嬢さんの補足:
父のガンの経緯は母が話してくれましたので、私は、余命1ヶ月の宣告を受けた時、どんなことに気をつけていたかお話したいと思います。

やはり余命宣告された時は、多くの方と同じようにパニックになり、落ち込み、悲しみました。でも、そんな状況でも、誰かが《運の良いこと、ツイてると思えること》を見つけるべきだと思ったんです。

当時、私の子供は小学1年生と保育園児でした。可愛い盛りの孫と遊べるのに、おじいちゃん死んじゃう、可哀そう、と思いました。いやいや、待てよ。ちょうど夏休み。子供たちを連れて実家に帰れば、最後の1ヶ月を一緒に過ごすことができる。ラッキーだ!と考え直しました。

次にツイてると思ったのは、余命1ヶ月で抗ガン剤も放射線もできなかったこと。抗ガン剤や放射線が体にキツイこと、ダメージを与えることを情報として知っていました。でも、多くの方は治療を受けられます。なぜか? 選ばなくちゃならないからです。お医者さんが勧める抗ガン剤治療を断るのはものすごく勇気とエネルギーが要ります。でも父の場合は、余命1ヶ月の時点でできないと言われた。もう病院の治療を悩むこともなく、他の方法に集中できた。ラッキーです。

また当時の父の体重は35Kgくらいと軽かったので、母と私の二人でどこにでも連れて行くことができました。イヤだと言っても、ごまかしながら簡単に車に乗せて連れ出すことができたのです。これもツイているにしました。(笑)

家族の中にポジティブな見方ができる人が一人でもいるといないでは、大きくちがうと思います。私はそういう役目をするよう心がけました。また私の子供たちも、父の回復に一役買ってくれました。まだ状況がわからない彼らは、朝起きるとおじいちゃんのベッドに行き、「じいちゃん、今日死ぬん?」と聞くのです。おじいちゃんは、「いや、今日は死なんな」と返します。そんな家族みんなが笑える無邪気さを彼らは発してくれました。 それでも自分たちがやっていることが果たして正しいのだろうか・・・、発熱が続けば病院に行ったほうがいいんじゃないか・・、心が揺れます。へこんだりもします。そんなとき心の支えになってくれるのが、仲間です。一緒に闘病してくれる仲間です。指導してくれる先生、患者仲間、友達・・・誰でもいいと思います・・・いわば同志とコンタクトをとることで、へこみをリカバリーできます。そういうお仲間を持つことはとても大事だと思います。

私たちがやってきたことが、すべての方の正解になるとは思いませんが、なにか皆様の参考になれば嬉しく思います。

ありがとうございました。


■ 「がんから元気になった6人講演会」 第三回 (2010年12月5日 名古屋)

1. 村田悦代さん(乳ガン)

2006年 乳ガン発症

演題 『病治しは心治し』
Sutent

こんにちは。
今日はお忙しいところ講演会にお越しいただき、ありがとうございます。

私は乳ガンでした。2005年の9月頃です。自分でしこりを見つけました。ガン検診は2年に1回のペースで受けていました。最初は子宮ガン検診を、そしてマンモグラフィーが導入されてからは、乳ガン検診も続けてきました。しかし、しこりに気づいてもすぐに病院に行くことはしなかったのです。というのは、私には20年以上同居してきた姑がいました。昼夜問わず一日中家の中で一緒に過ごしてきた姑です。その姑が、ちょうど時を同じくして、肺ガンになったのです。とりあえず私は、自分の乳房の小豆ほどのしこりを封印して、嫁の仕事に徹することに決めました。

義母はがんセンターで診療を受けましたが、ガンが全身に転移しているW期で、弱い抗ガン剤しか使えない状態でした。私にとっても初めての身内のガンでしたので、何もわかりません。治療は弱い抗ガン剤のせいか、副作用もなく、つらい様子は見られませんでした。義母は「もっと強い薬や新しいよく効く薬をやってくれませんか」と主治医にお願いするほどでした。私もガン治療とはそういうものだろうと思っていました。

義母の病状はだんだん悪くなり、放射線を当てたりもしました。そのうち抗ガン剤のイレッサの作用か、口内炎がひどくなり、ごはんが食べれなくなってきました。そして手足がいうことを利かなくなってきたのです。主治医は「イレッサは時々悪さをするんです。脳に入りましたね」と事も無げに説明し、もはや治療の余地はないといったふうでした。抗ガン剤の怖さを目の当たりにした瞬間でした。私は万一に備え、酸素吸入や人工呼吸のトレーニングも受けましたが、その年の11月に義母を看取ることになりました。

さて次は私の番です。ようやく落ち着いた2006年6月、封印を解いて自分の乳房の検査を受けに病院を訪ねました。細胞診検査のため、3cmほど切って細胞を採り出しました。1ヶ月後、検査結果を聞きに行くと、「村田さん、初期ですがガンです」と主治医に告げられました。CT画像を見ると、左胸は満天の星が光り輝くようになっています。乳ガンのステージT、左乳房を全部と腋など周囲も切除、という診断です。私はまだ若いつもりでしたので、それなら早く手術をしたほうがいいと、2週間後の予約を入れ、付き添ってくれた夫と帰宅しました。

まさか自分が・・・と泣きながら入院準備をしているところに、母の知人が訪ねてきました。「村田さん、ガンは治るらしいよ」どこからか私のことを聞きつけて、ある患者会の講演会の内容を話してくれました。手術や抗ガン剤の注意点や、日常生活とガンとの関係などです。生活習慣を変える自然療法でガンが治る可能性がある。手術をされた方には、申し訳ないのですが、予約を入れたものの、できれば手術したくないという気持ちが私には少なからずありました。というのも、細胞診検査のためほんの少し切っただけで乳房が変形してしまったのです。鏡に映してショックを受けました。「これ全部無くなるんだ・・・」 乳房を失って一生過ごすことが避けられるなら、自然療法をやってみよう!

実際に自然療法で治った人がいることで勇気を得た私は、乳房を切らずに治すことに素直に挑戦したくなりました。早速、主人と相談して手術をキャンセルしました。今後の関わりのことも考慮して、主治医には「1年だけ時間をください。1年間自然療法をやってダメだったら、また手術を検討します」とお願いしました。ただ、ガンの状態は確認したいので、4ヶ月に1度のペースでCT検査は受けることにしました。幸い理解のあるお医者さんで、民間療法には懐疑的でしたが、了承してくださいました。

こうなったらもう退路を断つ思いで臨むしかありません。主人と共にインターネットや本で勉強し、私の乳ガンは「血液の汚れ」と「冷え」を改善することが回復の鍵になると考え、ある冷え取りの本を参考にして実践することにしました。たまたまその方法を指導するショップが近所にあったのですぐに伺い、半身浴や食事の摂り方などを教えてもらいました。私の場合は食べ過ぎを指摘されました。「どうして私は食べ過ぎているのだろう?」と、自分なりに原因を手繰り寄せてみます。

ストレスがあったのは確かです。長年、姑とずっと一緒の生活。「いい嫁」と言われ喜んでいました。姑も、我が娘のように接してくれました。茶道の師範をしていた姑は、それはこと細かに家の中の事を取り仕切っていました。私は姑を尊敬し、姑の気に入られるように、姑の指示を受けなくとも家事をこなせるようにと努めました。そして自分が上手くできないと、なんてバカなんだ、なんでこんなことができないんだ、と自己嫌悪に陥る。そんな日々を何十年も続けたのです。

姑は孫に対しても、母親である私以上に至れり尽くせりでした。私が外出するときは、いつも面倒を見てくれたので、かえって私は行き先でゆっくりすることができず、用事を済ませたら直ちに帰宅する習慣がついていました。ですから、子供が就学してPTAの役員をやることになったとき、母親同士の付き合いがなかった私には友達がいませんでした。役員の仕事で悩んでも相談する人がいません。姑はPTAの役員になることには反対でしたので、内緒にしておきました。家でも外でも、気持や悩みを打ち明けられず、賢い嫁、可愛い嫁、立派な母であろうとした私は、少しのミスや、できなかったことで自分を責め、無能さを嘆きました。そして、家族が寝静まった頃、ジャンクなお菓子を食べ、酸化した料理用のワインを飲んで自己嫌悪の渦から逃れ眠りに就くのです。

冷え取りショップに週1回通うとともに、足湯、半身浴、靴下重ね履き、朝の人参ジュース、養生食をコツコツ続けました。入会した患者会の会報には、やはり自然療法をしている方々の記事が掲載されています。自分と同じような取り組みをしている先輩がたくさんいらっしゃる・・・私は会報を教科書にして実践しました。さらに鍼、温灸、リンパマッサージなども試しました。

その年の10月に、入会した患者会が主催する大きな集会が東京でありました。一人で東京に出かける機会などなかった一主婦でしたが、思いきって参加することにしました。当日の盛況ぶりや、本などで著名な先生にお会いできて興奮気味の私は、この時“スイッチが入った”のです。“治るスイッチ”です!「治るんだ! 治るんだ!」 それから自然療法が楽しくなりました。

4ヶ月後、約束していたCT検査をしました。主治医が画像を見て「村田さん、半分になってる」 驚きながら私に尋ねます。「何をやってるの?」 私は自分が実践していることを話しましたが、主治医は怪訝な顔をしています。1年と期限を切って挑んだ自然療法。私はこのまま続ければいいんだと手応えを感じ、さらに日々の養生に励みました。半身浴やビワ温灸、ウォーキングなど一日のスケジュールを作っていると、今まで自分のための時間を持つことがなかったなぁ、と気付きました。心にゆとりができたせいか、どんなことにも感謝する気持ちも芽生え、体が何を感じているかもわかるようになってきました。

患者会の冊子には、ガン治しには「インパクトのある変化」が必要だと書いてありました。私の場合は、「自分は誰に頼らなくとも何でも自分ひとりできる賢い人間だ」という意識を変えることだと思いました。そこで家族に対し、「本当の私は弱い人間です。みんなの助けが必要です。これからはひとりで抱え込まず、何でも相談します」と宣言したのです。主人をはじめ家族のサポートは、本当にありがたかったです。

そうして丸一年が経ち、検査を受けに行きました。「村田さん、この画像見たらガンがあったなんてわからないよ」 主治医も脱帽して自然退縮を認めてくれました。私は嬉しくてたまりませんでした。病気治しは心治しですね。自分にできないことはないと、自分を追い込み、できないと自分を嫌悪していた・・・そんな心を治すことで、私のガンは治ったのだと思います。

ありがとうございました。


2. 伊藤勇さん(前立腺ガン・肝臓転移・骨転移)

2006年 前立腺ガン発症・肝臓転移・骨転移

演題 『ガンを明るく生きる』
Sutent

今年で80歳になるおじいですが、しばらくお付き合いください。

前立腺ガンとわかった時には、肝臓や骨に転移していて、医者からはあと3ヶ月から半年の命だと告げられました。女房を60歳で亡くしていたこともあり、先に戒名を作りました。お手元の資料にコピーがありますね。それです。でも戒名を作ったおかげで、なんか生き方が変わりました。3ヶ月で死んで、生まれ変わった感じ。それから15年経ちました。お医者さんが云う「告知」というのは、あくまで「予想」なんですよ。「予想=よそう」を反対から読んでみてください。「うそよ」でしょ。だいたいこんなもん。(笑)

でも告知を受けたらショックですよ。日本では30万人がガンで死んでいる。有名人が亡くなったというニュースでも死因はガンが多い。私も3ヶ月と医者から云われて、経営していた会社の整理をしなきゃならんと思ったんです。経営者としての責任がありますから、事業をどうするのか決断しなければなりません。結局、第三者に売却したのです。そうしたら、一気に気が楽になりまして。いつも仕事のことで頭を悩ませていましたから、気持がスーッとしました。オーバーワークだったんでしょうな。

ガンはね、「心の健康」「体の健康」「経済の健康」の3つの要素が絡んでくると思うんですね。なかでも心が半分くらい占める。昨日、統合医療の先生とお会いしたんですが、笑いとイメージ。お配りした資料ありますね。

よくなる よくなる きっと よくなる ずんずん よくなる すっかり よくなる

(腹式呼吸しながら イメージしながら唱えてね)
Sutent

私はこれをベッドの近くのよく目につくところに貼っております。そして最後に「わっはっは! わっはっは! わっはっは!」と笑います。みなさん、一緒にやってみましょう。(笑)(笑)(笑) それから、この紙の上のほうに、私は「ガンちゃん、おとなしくしといてんかっ!」と書いております。一枚ずつ拡大コピーしてお渡ししていますから、みなさん是非やってみてください。笑いは効果抜群ですよ。 体の健康といえば、食事ですね。私は、海藻、ニンジン、ホウレン草、小松菜、カボチャをよく食べます。一人暮らしですから、カボチャは一個買うと何食分にもなります。そしてすった生姜を何にでも入れてます。ガン患者向けの食事の本なども出ていますが、本に書いてあることそのままでなくてもいいと思います。食事はその人なり、自分に合った食事を見つけることです。玄米でも、小豆をいれるのがいい人もいれば、大豆がいい人、粟がいい人、それぞれです。自分のお腹と相談して決めればいい。玄米はいいですよ。でも、美味しく食べることが大切です。病気だからしょうがなく、苦行のようにいやいや食べるなら止めたほうがいい、相談を受けたら私はそう言いますよ。患者本人だけでなく、家族みんなで食べたほうがいいから、家族みんなが美味しいと思うように玄米を炊く工夫が要ります。好きにならなきゃ、体の足しになりません。

経済の健康は、意外に忘れられていることがあります。借金して治療費払うとか、高額な治療を受けたり、健康食品を購入するだとか、無理をして経済的に余裕がないのはいけないと思いますね。気持ちに余裕がないでしょ。ガン治療といっても、自分の経済力に見合ったものをすればいいんですよ。借金して高額な放射線治療を受けたが、思ったほどの効果がなかった。でも借金は残っているから、毎月15万円返済しなければならない。そういう方も実際いるんですよ。そりゃ、すごいストレスになっちゃいます。そんな精神状態では、病気は良くならない。かえってストレスで悪くなっちゃいますよ。

ガンになる人は、真面目な人が多いんですよ。細やかで、責任感が強く、我慢強い。自分の体力を犠牲にしても仕事に取り組む。早いとこ治して、また復帰しようとする。でもガンはね、風邪とはちがいます。長く付き合っていかなければならない持病です。おとなしくさえしてくれていたらいい。だって、ガンといっても体の一部ですからね。余所から飛んできてなるわけじゃないでしょ〜。だから、そう敵視してもいかんの。

私の場合は、すでに肝臓や骨に転移していたから手術できない、痛みがでてきたらモルヒネ打ちなさい、と言われた。当初入院する予定だったけど、がんセンターは「治療する人は入院させるが、治療の見込みがない人を入院させるわけにはいかない」と最終検査の結果、入院予約を取り消した。私は2ヶ月くらいで退院して職場復帰するつもりだったので、主治医から「伊藤さん、入院しなくていいです」と言われたときは、私の病状はそう悪くないんだと思い「先生、ありがとう」と言ったの。そしたら主治医は、「伊藤さん、勘違いしてる。ガンが進行していて治療のしようがないから入院できないのです」 エレベーターでてっぺんからスットーンと落とされたみたいでしたわ。

治療できないと言われてショックでしたが、まず冷静になとうと思いました。入院しなくていいなら会社をどうにかせんといかん。従業員もいますからね。これは大変な責任です。でもって、整理することにしたんです。心のストレス、重荷、悩み事・・・解決できないことはありませんよ。そういうものは減らしたほうがいいですね。

大切なのは、自分を信じること、自分の病気は自分で治そうという意識、そして生きるぞという強い意志。薬で病気は治りません。薬は万能じゃないですよ。私は西洋医学を否定しませんが、西洋医学は補助療法だと思っています。自分の治癒力や免疫力こそが治癒の主体です。私が心がけているのは、快食・快便・快眠と適度な運動。これはガン患者であろうと、健康な人であろうと同じです。それと55年間、日記をつけてます。

自分なりのライフスタイルをつくること、人任せにしないこと。そんなふうにして今の私があります。

ご清聴ありがとうございました。

読者の広場 2011年01月08日(水) 笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品「替え歌」新作
読者の広場
郭林新気功(京都教室)の「フーテンのヒデ」さんから、ご自身で作詞された「笑いで免疫力を上げるユーモアトレーニング作品の替え歌」の新作が届きましたのでご紹介します。

こんにちは!フーテンのヒデです。 新春初笑いとして新作の替え歌をお届けします。


― 魚屋のオッサンの唄(新作フレーズ) ―

魚屋の オッサンは 横綱や サバ折り



― 八百屋のおばちゃんの唄 ―

八百屋のおばちゃんの お薬は?
キャベツ→キャベジン

八百屋のおばちゃんは フランス人?
にん人→にんじん!

八百屋のねえちゃんの 好物は?
焼きイモ!(これはストレートでした)

八百屋の僕ちゃんよ
1たす4は?
5や→ゴーヤ

八百屋のおばあちゃんの 年齢は?
89才→ハクサイ


― 果物屋の姉ちゃんの唄 ―

果物屋の姉ちゃんは つり くれへん
おつり なーし→なし
果物屋のバナナは 甘くない!
すいか? (大阪弁ですい=すっぱい)

果物屋の姉ちゃんよ いま何時?
(そうね大体ね〜サザン風に)
1時9分→いちじく

果物屋の姉ちゃんは 金メダル
五輪ごりんごりんごりんご りんご!

果物屋の兄ちゃんが
一目ぼれ!
もう メロンメロン

(続編も制作中です)

読者の広場 2011年01月15日(土) 映画「宇宙戦艦ヤマト」より学んだ闘病へのヒント
読者の広場
郭林新気功(京都教室)の「フーテンのヒデ」さんから、映画「宇宙戦艦ヤマト」より学んだ闘病へのヒントのお便りが届きましたのでご紹介します。

こんにちは!フーテンのヒデですが、今回はちょっと趣向を変えて、「宇宙戦艦ヤマト」の話です。何せキムタク主演で映画化されて、今我が家は大ブーム、そしてヤマトから治療、闘病へのヒントがありました。

― キムタク版映画ヤマトより ―

昔(ヒデは中学生でした)のアニメのヤマトと、新しい映画にはちょっと違いがあります。アニメ版は、遥かなイスカンダル星に、地球を汚染した放射能除去の装置をもらいに旅立つのですが、今度の映画では、「放射能除去装置があるかどうか、本当はわからない」という設定です。
ではなぜヤマトは行くのか?ヤマトの沖田艦長は、地球の人々に希望を与えるために、あえて「(あるかどうかわからない)装置を取りに行く」と偽って旅立つのでした。

治療、闘病にも希望が一番大切です!ドクターの皆様には、「お手上げ」と言わないで、ぜひとも標準治療でなくても、希望となるような治療を切にお願いします!

― アニメ版の沖田艦長の名言 ―

1.無事イスカンダルに行けるか不安がる若い隊員に対してのセリフ

「信じようではないか、成功を!
人生確かな物など一つもない。
一寸先は闇なんだ。
いたずらに不安がっていては何もできない。
不安を克服し明日を信じる、それも大事な心の戦いなんだ。」


まさに闘病にもあてはまる名言ですね。さすが名艦長!さすが松本零士先生!

2.艦長最期のセリフ

(やっと帰り着き、地球をながめながら)
「地球か  何もかもみな懐かしい…」

私たちみんなが生きている地球、少しでもきれいな地球を、次の生命たちに引きつぎたいですね!

(おしまい)



Charlie Yokoyama


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参考書
玄米菜食と健康料理
食卓からの健康改革



薬草の自然療法
難病も自然療法と食養生で治そう



自然療法が「体」を変える
免疫力が増幅するクスリを使わない医学



ビワの葉自然療法
体と心がよみがえる



かならず春は来るから


食生活が人生を変える
細胞が活気づく自然療法の知恵



心を育てる子どもの健康食


安心できる離乳からの健康育児


家庭における実際的看護の秘訣


中国古代の「養生法」


経穴入門
ツボの名前の由来作用主治がよくわかる



まんが漢方入門
中医薬食理論がよくわかる



黄帝内経
中国古代の養生奇書



易経入門
中国医学の源がわかる